|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 州 : [す, しゅう] (n) sandbank
ウォーナンブール (ビクトリア州) () はオーストラリア大陸南東部、ビクトリア州の南西地域の拠点の街で,リゾート地でもある。かつて、港湾都市だった。街の人口は29,284人(2011年統計〔 〕)だが、地方公共団体(Local government area)としてのの人口は 32,029人である(2011年統計〔 〕)。 ウォーナンブールは、オーストラリアの主要幹線道路プリンセス・ハイウェイにあり、西の(Port Fairy)、東の(Terang)の間にある。風光明媚で観光客が好むグレートオーシャンロードの西端近くでもあり、グレートオーシャンロードの最大の街なので、地元では「グレートオーシャンロードの首都」と称している。また、南西側の終点でもある。ビクトリア州都のメルボルンからは263キロメートル南西にある。 ==歴史== 「Warrnambool」とは、アボリジニ(オーストラリア先住民)の言葉で、「2つの湿地」を意味する〔 〕。この地をウォーナンブール(Warrnambool)と命名したのは、アボリジニ(オーストラリア先住民)が近くの火口丘をウォーナンブール(Warrnambool)と呼んでいたことに由来している。 最初にウォーナンブールを発見したヨーロッパ人は誰だろうか。有名な「マホガニー船」伝説が絡んでいる。1836年、地元のアザラシ漁師が、ウォーナンブール近辺の浜辺で木製(Mahogany Ship)の壊れた船体を発見した。この船は、1522年に近辺で遭難したポルトガル人の船だという説、1756年ころ沈没したスペイン船という説、それに、フランス船、中国船という諸説がある。壊れたマホガニー製の木製船体は、1880年頃までは確認されていたが、年月とともに木片が砂に覆われ、船体は消え、その後、断片しか見つかっていない。それで、現在、船の由来を検証するに足る充分な物的証拠がない〔 〕 。 ビクトリア州の西地域に、アボリジニ(オーストラリア先住民)が住んでいた。記録によると、1940年代には約3,500人にのぼった〔 〕。 ウォーナンブールの地形や地物を最初に記録したのは、1800年12月、英国人の中尉である。英国の探検船・で、この地の沿岸を航海し、いくつかの地形や地物に命名した。その後、1802年、英国人探検家のマシュー・フリンダースとフランス人探検家のニコラ・ボーダンがこの地の海岸の特徴を記録した。 1830年代には、アザラシ漁師、捕鯨漁師たちは頻繁にこの地にきていたが定住していなかった。 1836年、スコットランド生まれの探検家・が彼の3回目の探検で、ビクトリア州の南西地域に定住可能な土地があることを発見し、1830年代後半に最初の定住者が、この地に移動してきた。初期は、の西側をボールデン(Bolden)家が東側をアラン(Allan)家が占めた。その後、トーマス・マニフォールド(Thomas Manifold)などの有力な牧場主が続き、この地を発展させた〔 〕。 1846年に土地の測量がなされ、1847年に土地区画制度であるタウンシップ制が敷かれた。1848年に郵便局が開設され、街が形成されていった。 1840年代のウォーナンブールは、縦4列・横8列の碁盤状の道路から構成され、Lava Street (北), ジャパンストリート (東), Merri Street (南) 、Henna Street (西)に囲まれた地域だった。街の大通りは、Fairy Streetだった。 1851年から1860年代にビクトリア州で起こったゴールドラッシュ、つまり の時、近くの港が個人所有であったために、ウォーナンブール港が重要な港になり、街と港は金鉱地帯との交易で繁栄し、急速に発展した。ウォーナンブールは、1855年に自治体を形成し、1863年にバラ (行政区画)、1883年にタウン(town)、1918年に地方公共団体(Local government area)としてのシティ(city、)となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウォーナンブール (ビクトリア州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|